ジャパン・ビジネス・サービス有限会社 代表取締役 ジャグモハン・チャンドラニ
東京の西葛西は、日本一のインド人街である。在日インド人は4万人ほどだが、西葛西エリアだけで6,000人以上が暮らしている。チャンドラニ氏は西葛西のインド人のパイオニアで、江戸川インド人会の会長を務める人物だ。大柄な体格と、日本ではあまりお目にかかることのない立派なひげで、一見すると近寄りがたい雰囲気ながら、話をしてみると実に気さくだ。饒舌で、大きな声でよく笑う。インド出張から帰ってきたばかりのチャンドラニ氏に、これまでの半生と元気の秘訣を聞いた。
想定外だった日本行き、紅茶の輸入販売が成功して西葛西に移り住んだ
チャンドラニ氏が来日したのは1978年と、もう45年以上前のこと。貿易商の家系に生まれ、自身もニューヨークで働くため出発準備をしていたところ、日本に住むいとこから「忙しくなったから日本で仕事を手伝ってくれないか」と言われて急遽行き先を変更した。
「日本に来たのは26歳の頃ですね。当時の日本はトランジスタラジオの輸出が盛んで、日本製は品質が良いと注目されていました。我々は日本製の繊維を扱っていたのですが、その流れにあやかろうということで、上質な薄い繊維をニューヨークのファッション街などに輸出していました。1ドルが300円くらいでしたから、輸出は儲かりましたよ」
注文を受けてから仕入れるため在庫を抱えるリスクもなく、商売は順調だった。ただ、欲しいと言われた物を仕入れて売るだけの仕事は、若いチャンドラニ氏にとっては退屈だったという。
「それが耐えられなくて、後先も考えず輸入の仕事を始めました。後で気が付いたのですが、輸出は相手が英語なので問題ないものの、輸入して日本人相手に商売するとなると日本語が必要ですよね。でも、私は全然日本語が分からなかったので大変でした」
チャンドラニ氏は当時を振り返って「完全に若気の至り」と笑う。
しかし試行錯誤を繰り返しながら、まだ日本ではあまり馴染みがなかったインドの紅茶に目を付け、輸入して日本で販売したところこれが成功。西葛西の倉庫を借り、自身も西葛西に引っ越した。その頃の西葛西は、何もない場所だったという。
「周囲は原っぱでしたよ。道路しかない。駅もない。長く住んでいたのは農家さんくらいです。他は新しく移り住んできた人ばかりでしたので、私たちが暮らすにはかえって好都合でした」
2000年問題対策で来日したインド人ITエンジニアの生活をサポート、次々と生活インフラを整えていく。
2000年問題に揺れた1990年代後半。コンピュータの誤作動を防ぐため、多くの企業がインドからITエンジニアを呼び寄せた時期に転機が訪れる。
「都心から近く、アクセスも良い西葛西はインド人に人気がありました。とはいえ、アパートを借りるには保証人が必要ですよね。日本に身寄りのない彼らは、ここで長く暮らしている私を頼ってきました」
チャンドラニ氏は、彼らの保証人を引き受ける。
「この辺りの大家さんと交渉してね。それで西葛西に住むインド人が増えていきました。それまでは個人で一人二人が住む程度だったのに、一気に数百人単位でやってくるものだから近隣の日本人のみなさんは『えらいこっちゃ!』と思ったでしょう。あまりトラブルはありませんでしたが、インド人は居酒屋ではなく誰かの家に集まる習慣がありますので、騒音の苦情はありましたね。そんなときは私が彼らに日本の文化を認識するようにし、アパートでは静かに過ごすようにお願いしました」
チャンドラニ氏がサポートしたのは住居だけではない。「インドには菜食主義者が多く、彼らが欲しいものは一般の日本の飲食店では提供していません。料理から肉や魚を抜くといっても、出汁や調味料などに含まれている場合もありますから、食べられるのが白米だけになってしまいます。インドの食材はほとんど出回っていませんでしたし、あったとしても高いので自炊は難しかった。ならばと彼らの為に安心して食事ができるインド料理のまかない食堂を作ったんです。毎日の食事ですから、家庭の味を安く提供することにしました。これは今も変わらない思いです」
その後も南インド地方のインド人が増えてくると、その地方の家庭料理を出すお店を新たにオープン。さらにインド食材のお店もオープンさせ、自炊のニーズにも対応した。他にも学校や保育所など、生活インフラを整えていく。同胞のインド人とはいえ、他人のはずの彼らにそこまで手を差し伸べるのはなぜか。
「私の家系は、昔はカラチ(現在はパキスタン領)で貿易商をしていましたが、インド・パキスタンの分離独立の混乱で土地を追われてしまいました。やむなく私たちはビジネスの拠点があったカルカッタに移住したのですが、そういう痛みを経験しているから、異国の地で困っている彼らを放ってはおけなかったのだと思います」
心身ともに元気いっぱいで働き続けられる秘訣とは
70歳を過ぎた今も紅茶の輸入販売の現場で働いているが、輸入元との交渉は奥様に任せ、チャンドラニ氏は実務を担当している。
「妻は紅茶の専門家なんですよ。元々インド政府の広報官をやっていて、日本の大使館で働きながらインド紅茶の啓蒙活動をしていました。だから茶葉を選んだり説明したりするのも得意ですし、大使館で紅茶のイベントがあると講義しに行ったりしています。そういう経歴があるので、現地での交渉は彼女の方が上ですね。コロナの間は控えていましたが、年に5~6回はインドに仕入れに行きます。市場は常に変化しているので、それに対応できるよう自分をアップデートし続けています」
これから先も働き続けると言うチャンドラニ氏。元気に働き続けているコツを聞いてみた。「良いコミュニケーションを積み重ねることですね。働くということは人と関わるということなので、これはとても大事です。特に若い人が相手の場合は、こちらが聞く耳を持たなければなりません。いろいろ言いたくなるのをぐっとこらえて、とにかく話を聞くべきです。誰だって自分の話を聞いてくれる人には、また会いたくなるものですからね」
インタビューを終えて、撮影のためにチャンドラニ氏と外に出ると、通りがかった男性が声をかけてきた。
「チャンドラニさん、ナマステ! いつ帰ってきたの?」「ナマステ。ちょっと前にね」
労をいとわず人のために尽力してきた波乱万丈の人生は、こうしたコミュニケーションの積み重ねが支えてきたに違いない。