上下関係がフラットで、社員が意見を言いやすい環境がある会社に対して「風通しがいい職場」などと言うが、そんな会社でも自由気ままに言いたいことを言ったり、誰に対しても思っていることをそのまま発言していいわけではない。そこには企業として、あるいは人間関係という意味でも、一定のルールや節度というものがある。
ポジティブな意見交換は会社の成長を促進するが、ネガティブな発言や、人を傷つけるような発言は、停滞をもたらす。
たとえば、会社の研修などで受講者に感想を聞いたりすること多いよね。そこで思ったことを率直に言ってくださいなんて言われて、「つまらなかった、何の学びもなかった」なんて答えた人がいたら、その後どんなことが起こるか想像してごらん。
研修を担当した社員は、落ち込み、自分を責めるかもしれない。自分の存在意義はないと辞職を決意するなんてことも起こりうる。この言葉を言ったら、その先にどんなことが起こる可能性があるのかを想像すれば、ネガティブなだけの意見は言わない方がいいことはわかるだろ。人を傷つけるだけで、何も生み出さない。
言っちゃいけないことと、絶対に言うべきこと
今年のアカデミー賞で、ウイル・スミスがプレゼンターのクリス・ロックを平手打ちした事件は、世界中でニュースになったけど、あれどう思う?
もちろん暴力はよくないことだけど、クリス・ロックは気遣いができてなかったよね。言っちゃいけないことを言ってしまった。脱毛症で悩んでいる奥さんをいじって笑いをとるという行為は、奥さんの気持ちを想像できれば普通はしない。自由にものを言える環境があっても、言っちゃいけないこと、言わない方がいいことがあるという典型的な例だと思うんだよね。人を傷つけたり、貶めるようなことは言っちゃいけないよ。
でも一方で、しっかりと自分の意見を言うことが大切な場面もある。自分の後輩がパワハラでひどい目に遭っている。パワハラをしている上司は自分の一期上の先輩だった。こんなときどうする? ここは言うべきだよな。
先輩を立てて、後輩を守ろうとしないような奴は、俺は男じゃないと思う。これは風通しがいいとか、ものが言いやすい環境があるとかないとか、そういう問題じゃない。言わなきゃいけないことから逃げてはいけない。これは人間として当たり前のことじゃないか?
ウイル・スミスに対して暴力以外で解決できる方法があったんじゃないかという人もいるが、あの場面で妻のために平手もできないようじゃ、男じゃないよ。世間体を守りたいのか、違うだろ。自分を捨ててでも守るべきは自分の女房だよ。
言いたいことが言えないのを環境のせいにするな
雪印食品は、かつて牛肉の産地偽装事件で解散に追い込まれた。この偽装を告発したのは取引業者だったそうだけど、社内で改革できなかったのは社風の問題だったのだろうか。
雪印グループは、その前年、集団食中毒事件も起こしている。ずさんな安全管理や小さな偽装が社風として常態化していたのは事実だったかもしれないと思う。
たとえばそれは、23時59分に作ったものの製造年月日を翌日にしちゃうなんて小さい偽装から始まったのかもしれない。それに慣れてくると49分でもそんなに変わらないからこれも翌日の表記にしちゃえ、などと偽装が少しずつ大きくなる。それが、ついには産地偽装というまぎれもない詐欺にまで発展してしまったということは十分あり得る。
でも、これ、社風のせいにしてはいけないと思う。やっぱり人間の問題だ。環境がどうであろうが、社風がどうであろうが、やっちゃいけないことはやっちゃいけないし、言わなきゃいけないことは言わなきゃいけない。人として当たり前のことだ。できなきゃ生きてる価値もない。
若い人に言いたいのは、意見が言えない、言いづらいとしたら、それは社風や環境の問題ではなく、打算がはたらいて言わない方が良いと決めたのは、自分自身の問題だということだ。
おまえら、気配りなんてやったことあるのか?
テンポス精神17ヶ条の第一条は「ニコニコ・テキパキ・キッチリ・気配り・向上心」だけど、おまえら気配りなんてやったことあるのか?
最近の教育は、自己主張をしっかりしろとは教えるが、気配りや気遣いの大切さは教えてくれない。しかも主張するのは個人の権利ばかりで、他人のことを考えない。家族でさえ横のつながりは希薄だ。俺は、いまのそんなだらしない人間関係に敢然と立ち向かっているんだ! なんて吠えたくなるほど、いまの人はわかってないよね。
たとえば、病気で余命1年という人に「肌つやがなくなってきたし、やせたなぁ」なんて言うか。事実でもそんな言い方しないだろ。
一方で、その患者が身内だとして「私はガンなの? 死ぬの?」と聞かれたとき、本当のことを言うかどうかはものすごく悩むと思う。言うとがっかりして気力をなくしてしまうかもしれないし、逆に、期限があるならと前向きに生きるようになるかもしれない。結果はどっちになるかわからないわけで、簡単に結論は出せない。言うか言わないか高度な判断を常に求められるときもあるし、判断した結果、相手を悲しませてしまう究極の選択だってある。
だけど、人を傷つけたりする可能性がある場合は、事実であろうが言ってはいけない。ネガティブなことも言わない。言うならプラスのストロークになるよう、ポジティブに言うべきだ。そして、言った方がいいか言わない方がいいか悩むケースは、よく考えて決め、選択を間違えてえらい目に遭う場合もあることを覚悟して言うことだ。
そうすれば組織が前に向かって走り始める
ものを言った結果、どうなるか、どんなことが起こるのか、想像力を働かせてよく考える癖をつけるといい。昔は、こういう訓練は生活の中でできていたんだけど、いまはそれがないから、トレーニングしなければいけない。
たとえば、遠足から帰ってきた小学生の子供が「今日のおにぎり、ぐちゃぐちゃだったよ」とか「茶色ばっかりのお弁当、かわいくない」なんて母親に愚痴るのは、今は普通のことかもしれない。でも、これが一昔前なら、共働きや内職で家計を支えながら自分たちの世話をしているお母ちゃんの大変さを理解しているお兄ちゃんが「そんなことは言うもんじゃない」と教えてくれた。
「おまえ、お母ちゃんは毎日遅くまで働いてヘトヘトになっているんだぞ。お前がまだグーグー寝てる時間に起きて、おにぎりをつくってくれたんだぞ。それにお前は文句つけるのか? 俺はそんなことは絶対に言えない」という言葉を聞いて、弟や妹は自分の無神経な言葉に気づき反省する。無意識に人を傷つけることがあることを知り、人を思いやる想像力を自然と身に着けていったものだ。
言い合えることは大切なことだけど、マイナスなことは言っちゃいけないってこと、わかってくれたかなぁ。人を傷つけるようなことは絶対に言わない。それができるようになると、これがプラスのストロークにつながっていく。組織が、会社が、前に向かって走り始めるんだよ。
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