死ぬ気でやることは、価値あるか。

森下篤史

死ぬ気でやろうと、死ぬ気がなくても、やるべき事をやれば同じか。

死ぬ気でやろうが、死ぬ気がなくても、やる事をやれば、結果は同じです。
という幹部が34人中7人もいた。
確かにやる事をやれば結果は同じだ。
世に言う偉人、偉業を成し遂げた人の中には、他人が見れば気が触れたんじゃないかと思われる程、打ち込んでいても、本人は死ぬ気でやるような、追い込んでやってるわけでもなく、悲壮感もなく、やる人がいる。
20年も前になるか、福井コンピュータの創業者は、会社を立ち上げた頃、貧乏で暖房もないところて、明け方までシステム開発に没頭して、何か臭いがすると辺りを見回したが、なにもない、小さな足温機に6時時間も乗せっぱなしの、足の裏が焦げていたのに気がつかなかった。と言う話を聞いたことがある。
彼の話はどこを取っても、死ぬ気でやるなどという、威勢の良い言葉は出てこなかった。
俺のような凡夫が死ぬ気でやるなどと吠えても、福井コンピュータの創業者程、打ち込めるかと言うと怪しいものである。

1991年12月29日 グアムヨットレースで、たか号が遭難した。
小さなゴムボートに6人乗り込んで、食料は一人一日親指の爪の大きさの乾パンだけ、
水は一人100ミリリットル
7日後には水がなくなり、十日後には乾パンも無くなった。
十五日辺りに、捜索機が探索に来た。
疲れきった身体を起こして、持っているものを振り上げ、カラカラの喉から、あらん限りの声をあげて、合図を送った。
二週間の沈滞した空気が、いっぺんに明日が語れるようになり、日本に着いたら「ラーメンか、寿司のどっちを食べるか」などとワイワイ話した。
5時間過ぎ、10時間過ぎ、救援機が来ない。
翌日の朝には、半分諦めの空気が流れてきた。
誰も口を利くものがいない。2日目から、静かに息をしなくなるひとが続いて、2人になってしまった。
十五日間飲まず食わずで死ななかっ人たちが、救援機が来ないと、落胆して希望を失った途端、次から次へと、死んでしまうこの現実。

極限になると、生きる力は「体力でなく 気力、希望」による。
我々凡夫は、やるべき事をやるとはいえ、極限までやることは少ない。言って見れば80%くらいて、やるべき事をやったと言っているにすぎない。。
凡夫はもうやることがないと言うくらいやっても、せいぜい極限の80%程度なんだから、そこに「死ぬ気でやる」姿勢が加われば、極限の「死ぬ気でやる」ほどではないにしろ、
やるべき事をやれば程度の人と比べれば「死ぬ気でやる」人の方が明らかに、良い結果をもたらすと言える。
「死ぬ気でやる」にも、悲愴がって「死ぬ気でやるのと」
「希望を持って死ぬ気でやる」のでは、これまた結果が違ってくる。
言えることは両方とも「精神が行動に作用する」
我々凡夫は良い結果をもたらすには、希望を持って、死ぬ気でやらなければいけない。

では行動が、精神に影響をもたらすことはないのであろうか。

ビジネスアスリート 森下篤史