株式会社サンエイフーズ
代表取締役
韓 永紀氏
目次
父親の言いなりで宅配寿司をやってみた
卒業後は、親の金で大原簿記学校に通っていたんですが、ある日父親に呼ばれました。これからは宅配のお寿司屋さんが面白いという話を聞いてきたらしく、バブルの時に買った物件が休耕地で、お前やってみろと言われたのです。
私もちょうど税理士の勉強はつまんなくなっちゃってたし、そっちの方が面白そうなので、江東区中心に5店舗出店している天狗寿司というチェーン店に忍び込んで勉強することになりました。しかし、その店が半端なく忙しくて売り上げが平日で30~40万円、週末には100万円。とにかくチラシを撒いたらすぐ電話がかかってくるんです。
宅配寿司は草創期だったのでチラシのレスポンス率は当時で確か2〜3%くらいはあったかな。だからチラシを1万枚撒いたら200~300本の電話がかかってくる、そういういう状況でした。
ですから、父親と銀行へ500万円を借りに行った時も、私は軽いノリで有限会社マルハンエンタープライズの専務になって宅配寿司店を開業したんです。バイクはリースで用意し、ゼンリンさんの地図を買い壁に貼ったりして、見よう見まねで天狗寿司と全く同じ店をオープンしたんです
オープン後、チラシを何十万枚か撒いたところ、店はオープン月から売上700〜800万円。すぐに1000万円に跳ねました。寿司のシャリは寿司ロボットメーカーの鈴茂さんの機械が握るから職人は要らず、仕入はうちの親戚に経験者がいたので、その人が手伝いに来てくれて、いっしょに築地に行って取引先を紹介してくれました。 当時はまだ回転寿司もそれほどなくて、寿司と言えば一人1万円。そんな時代に1000円で寿司が食べられるとなったら、そりゃ流行りますよ。その時、どんなことを考えていたかというと?
もちろん、何も考えていませんでした。
そのまま調子良くて、なんとか売上を維持しながら2店舗目を出したんです。場所は私がバイトで潜入した塩浜です。しかもその店の100 m くらい目と鼻の先。マーケティングとかも分からないから、あの店は忙しかったから近くに出しちゃえと。そしたらそこも弾けて月商1000万円くらい売れちゃいました。もう、それこそ天狗ですよ。そうなると毎晩キャバクラです。当時、まだ26歳ですからおねーちゃん大好きですし、仕事も学生サークルの延長のような感じでした。毎日吐きながら仕事してましたね。失敗したら全部部下のせい、うまくいったら全部自分のおかげ。しかし、そんなやりたい放題の日々がいつまでも続くはずがありません。
それはある日突然やってきた
転落のきっかけは、税理士からかかってきた一本の電話でした。モラトリアム法といって、当時、小渕総理の時代に中小企業の救済策としてサインするだけで3000万円貸してくれる、そんな法案が国会を通過したのです。それで、とりあえず3000万円借りることにしました。何に使うというあてはないんだけれどもとりあえず借りとけって。
それでポンと3000万円が入っちゃったんです。お金ができちゃったんで3店舗目出しちゃおうかということで墨田区の業平に出したんです。今でも忘れません、店を出そうと思っても業平は僕の中ではトラウマなんです。今でも怖いです。
なぜかと言うと、業平のお店の損益分岐点は400万なのに、200万円くらいしか売上がない。オープンしてから、これはやばい、これまでとは全く違う。同じようにチラシを撒いても反応率が0.0何%ぐらいしかない。結局この辺りの住民はあまりお金を使わない人たちでした。でも200万円~300万円の売り上げで赤字続きのまま1年半ぐらい引っ張ってました。閉めればよかったんですけれど、当時はスクラップアンドビルドという言葉も知りませんでした。3店舗でスクラップするなんて、2000万円かけて作った店なのに、そんなことはできないと赤字を垂れ流すまま。そこからですよ、おかしくなってきたのは。それで私は何をしたかというと、
他の店で稼げ、無理してでも注文を受けろ。
結局、既存店にしわ寄せが来るんですね。どういうしわ寄せかと言うと宅配寿司って人を抱えてても製造能力には限界があるじゃないですか。その中で、1時間かかる注文でも30分で行けますと言って無理に注文を取ろうとするわけです。3店舗目の赤字を埋めるために、売上を上げないといけないから。例えば法事で夜7時の予約が10件しか取れないところを20件も取っちゃう。お客さんのいいなり、お客さんの希望する時間でぜんぶ受けちゃう。大丈夫じゃないのに大丈夫ですと言っちゃう。当然、お客さんは法事で仕出しのお寿司を待ってるじゃないですか。てめえこの野郎って怒られたのは数知れず。仕方なく謝りに行ったらぶっ殺すぞと言われて。
売上を上げるために無理な注文を取るからスタッフも焦ってちゃんとした寿司が作れない。マグロなんて半解凍のカチコチの寿司を出したり、もう酷いもんです。とりあえずこれ持って行けみたいな。ある日、アルバイトに3件掛け持ちして配達させたら、焦って転倒してしまったのです。その時に、私の口から出た言葉は、何やってんだ、ボケ。商品が台無しになったじゃないか。バイトの怪我よりも商品の心配をしていたのです。そんな毎日はクレームとの戦いでした。当然、既存店の売上も落ちてきます。最低でも1000万円くらいあった売上が、ついに赤字を出すまで落ち込みました。それでとりあえず急場をしのぐのにキャッシングに手を出してしまったのです。丸井のカードで100万円ほど借りて次にセゾンカードで返済する、といった具合で毎日 ATM に行ってとりあえず返す、返したらまた借りる。もうノイローゼになりますよ。クレームの嵐で社員は辞める、支払いの督促状は毎日来る。でも、落ち込んでいてもとりあえず店を開けないといけない。お店には行くけど、業者から電話がかかってきたら、いないと言ってくれ。最後の一年はそんな感じでした。キャッシングローンの借金がいくらあるのかもわからない状況で金利20%じゃないですか。1000万円ぐらいあったかな、金利だけで200万円ですよ。
32歳くらいの時が一番忙しく、子供が生まれた頃家賃8万円の北向きのアパートに住んでいました。そこのおじいちゃんがちょっとボケてたのかもしれないけど、家賃を滞納しても何も言われませんでした。この時はありがたかったですよ。でもガス電気水道を全部止められたことがありました。本当に払えなかったですから。止めますよと言われても大丈夫だろうとタカをくくっていたら本当に止められちゃいました。今晩どうしよう、ろうそくを灯しながら、水が出ないのでお風呂も入れない。今となっては笑い話ですけど、その当時は店のシャリが余るので毎日すし飯を食べてました。今日はすし飯でピラフにしようかなんてね。
でも最終的にはやはり家族が支えでした。一人であのスパイラルに陥ってたら立ち上がれなかったと思います。多分どっかに逃げていましたよ。逃げてどうしようもない人生を送っていたかもしれない。家族がいたから逃げられなかった。だからよかった。今から思うと、あそこで踏ん張れたかどうかが勝負の分かれ目だったと思います。調べたら仕入れ業者に1000万円、滞納した税金が3000万円。あと、銀行とキャッシングローン。その頃、私は毎日本屋に行っては、民事再生だとか借金の棒引きだとかの勉強をしていました。それで先輩の弁護士のところへ相談に行ったんです。するとその先輩は、「君はまだ若いから自己破産をした方がいいよ」。民事再生だと、仮に君がサラリーマンをやったとして、毎月10万円とか返済できるの?という話になって、結局自己破産しなさいと言われました。その時はショックだったですね。なんか人生が終わっちゃったような感じでした。犯罪者になったようで反面なんか救われたような気持ち。自己破産を承認する書類にサインすれば全ての債権者に弁護士事務所から通達が行くのです。するとこれまで毎日かかってきた催促電話が、ウソのようにピタッと止まりました。その安堵感と情けなさとで、なんで大学まで出て俺は破産しているんだ。お前は犯罪者かということで家に帰って一人男泣きしました。
韓流ブーム、これはチャンスだ!
実は自己破産のあと、私は俳優になろうとしたんです。ちょうど韓流ブームが始まって冬のソナタが大ヒットしていたので、私も俳優になりたいと親戚の芸能事務所に行ったんです。門前払いでした。お前、歳考えろ。33歳にもなって何考えてんだ、と。韓流ブームもあったんでしょうけど、その当時は俳優になって稼いでやろうと真剣に考えてました。結局俳優の話は門前払いになり、ではどうしようかな、なにしようかなーって考えて、親に金をせびって毎日ぶらぶらしていました。ちょうどその頃二人目ができたんです。けれども私だけ弾けちゃってて、毎日飲み歩いていたんです。当時、両親はまだお金があったので、すねのかじり直しですよ。親にせびったお金でまたキャバクラに通っていました。子どもに手がかかっている現実から逃げたいのと、家にいても辛いだけだから、毎日飲み歩いていました。当時のことを妻は未だに怒っています、絶対許さないからって。
実は、私は宅配寿司という電話で注文を受けて寿司を届ける、全くお客様と接しない業態が嫌いでした。それより、お客様と直に対話できる商売がやりたいと思っていました。だから両親から店、味道園(焼肉店)を手伝えと言われた時は、絶対に失敗したくないと思ったんです。自己破産の道なんて二度とごめんだ、次は絶対に成功したい。それで私の取った行動とは、もっと肉のことを知りたい。そう思って行動したら、衝撃の出会いが待っていたのです。
焼肉屋で育ったくせに私は肉のことを何も知りませんでした。とりあえず船井総研の焼肉セミナーに参加すると、面識のあった業界誌の編集長に群馬の米沢亭でセミナーをやるから来いと言われました。その米沢亭がすごい店だったのです。売上は200席で月額5000万円、土日なんて2時間待ちです。みんな駐車場の車の中で待っているのです。それで江原社長にどうしてこんなに美味しいんですかと尋ねたら、お前こっち来いって厨房に連れていかれて、仕込みはこうやってやるんや、と。味道園とはぜんぜん違っていました。ウチはただ冷凍肉を切っているだけ。それで何でも教えてやるから来いって言ってくれたので、片道3時間かけて2週間毎日通いました。今から14年前ぐらいの話です。勉強しないと、もっと学ばないと。ということで経営を学ぶために、清水の舞台から飛び降りるつもりで70万円を払って(分割にしてもらいましたけど)シナジースペースという経営コンサルティングの研修に参加したのです。そこで私の人生を変える重要なキーワードに出会いました。
自分が源泉
“目の前にあるすべての結果を「自分が創ったとしら」という立場でその事実に向かい合ったとき、人生は劇的に変わる”。ひと言で言うと人のせいにしないということです。他責じゃなくて全て自責。商売がうまくいかなかったのはすべて自分の責任。お客さんが来ないのはすべて自分の責任。それまでの私は何でも相手の責任にしていました。全部社員スタッフに責任をなすりつけていました。そこで前田さんというコンサルタントに出会い、授業料は払わなくてもいいから勉強会に来なさいと誘ってくださいました。米沢亭の井原社長とシナジースペースで出会った前田さん。お金も何も持ってない私をどうしてこの人たちは助けてくれるのだろう?私は不思議でした。
実は、この時すでに私は「自分が源泉」を実践していたのでした。自己破産は自分が創り出したんだと心の底から思えた時、私の人生は大きく変わり始め、勉強したい!学びたい!という気持ちが彼らに伝わったんだと思います。この時初めて「感謝」という言葉がストンと腹に落ちたのです。
飛行機の延長線上に月は無い ロケットがないと月には行けない
ダイニングイノベーションの西山さんがよく言っています。私は放漫経営と言うかビジョンがなかった。目指すものが何もなかったのです。今はビジョンがあります。下町でナンバーワンの焼肉店を目指していきます。実は、両親が経営する味道園はバブル時代に拵えた借金が返せず、家族会議で競売にかけることを決めたのでした。もうお店は手放して裸一貫、もう一度小さな店からやり直そう。するとここでも恩人が現れるのです。父親の友人の昌山さんが店を売ってはいけないよ、と競売に出る前に任意売買という形で店を買い取ってくださったのです。そして私たちは昌山さんに家賃を払いながら商売を続けることが出来ました。その後、店は私が引き継いで社名もサンエイフーズに変え、一生懸命お店を回し借金は完済しました。現在、2020年までに直営で10店舗を出す計画が進行中です。また社員の多くが自分の店が持ちたいというので、社員へののれん分け制度も計画しています。
谷が深ければ山が高くなる
やっぱり勉強しないと、日々の生活が自堕落になってしまいます。学生時代から宅配寿司で自己破産するまで本を読んだことなんてありませんでした。
私の好きな言葉なんですが、「谷が深ければ山が高くなる」。同じ山でも谷がなければ3000 メートル。しかし1000メートルの谷があれば合計4000メートル。私はしくじりのおかげで人より深い谷を作ってしまいました。しかし、今ではこの高低差のおかげで人の何倍も充実感を感じることができるのです。クレジットカードも持てるようになりました。自己破産しても必死になって頑張れば7年でカードを持てるのです。「ブラックリストからブラックカードへ」。いつか、そんな本が書ければいいなと思っています。
銀行とか税金とか引当金とかはどうでもいいんです。それより築地の取引先とかに迷惑かけちゃったのがとても心苦しかった。その後直接お詫びした時、いいよいいよと言ってくれたのは救いでしたが、破産した後も、何度か返済していますが、いつか完済したいと考えております。しかし、社員たちには一応救済措置があって8割は給料を国が補填してくれるのです。けれども2割は迷惑かけてしまいました。それは僕の心の傷です。だから私が成功しているだろう、なんて書かれては困ります。今回の話は僕にとっての戒めだと捉えています。こう話す韓社長の表情はとても爽やかでした。
株式会社サンエイフーズ
東京都江東区亀戸1-21-5
電話 03-5858-8088
代表取締役
韓 永紀氏
http://ushiqro.com/