死を望む弟に死の手助けをすることは悪なのか
森鴎外の名作「高瀬舟」をご存知でしょうか。
「子供の頃に両親を亡くした喜助は弟と2人で暮らしていました。弟が病気で働けなくなってからも貧しいながら一生懸命働き、弟の面倒を見ています。ところが、ある日家に帰ると弟が刃物で喉を切り付け血を流しています。聞けばこれ以上迷惑をかけたくないと思い自殺を図ったのです。しかし、弟は最後まで喉を切ることができません。血を流しながら刃を抜いてくれと喜助に必死に頼みます。刃を抜けば血があふれ出し弟は死にます。迷う喜助はとうとう刃を抜いてしまうのでした。そこをちょうど近所の人に見られ、喜助は弟殺しの罪として島流しにあうのです。」
現代でも、人の死を援助すれば罰せられます。自殺幇助(ほうじょ)罪に問われるのです。楽にさせてあげたほうがよっぽど本人の為だと思っていても、人の死に手を差し伸べてはいけないのです。なぜか?
日本の江戸時代初期の人口は3000万人でした。人口は増え明治時代初期は3400万人まで増えました。およそ270年間で13%の人口増です。しかし、その100年後の2000年、人口は一気に1億人まで増えるのです。それは、医療の進歩や保険などの福利厚生が格段に進化しているからというのは明白な事実です。では反対に、医療技術のない江戸時代を現代に重ねてみるとどうでしょう。江戸時代から明治時代まで13%しか人口は増えていないのですから、1億人のうち1千3百人しか生き残れない時代だったということになります。
つまり、現在生きている87%の人は、医療技術や介護制度がないと生きていけない生命力の弱い人たちなのです。
人類が生まれた時から強いものだけが生き残ってきました。死んでゆく人たちは後世に次の世代を頼むよ、と思いながら死んでいくのです。今、私達が人間として求められているものは、頭の健康、体の健康、そして子孫を残していくことだと考えるのです。それが人間が果たさなければならない役割なのですから。喜助が島流しにされたのも、自殺幇助(ほうじょ)罪があるのも、この人間の役割を果たすための害だからです。人は死にます。生命力の弱い人が死んでしまうのも、昔からある当たり前の摂理でもあるのです。それを妨げる事は誰にでもできません。
だから、障碍者だろうが普通の人だろうが、生を受けた人は一生懸命に生きなければなりません、働かなければなりません。障害者だから生きる価値が無い等とは、誰かが決められることはできません、また、自分が障害者だからとグチグチ言ってはいけないのです。