自己責任と言いながら助けてもらわないと生きられない人を、見捨てておけますか。

アメリカ大陸に人が住んでいないとして、100家族で移住をすることになった。
鍬 鎌 ノコギリから、牛 豚 鶏 大豆 小麦
耕して種を播いて、家畜を飼って、100家族条件は全く同じだとする。
ある家族は朝暗いうちから起きて、畠を開墾する、夜も寝る間を惜しんで一家総出で働く。
畑も広くなる、豚も鶏も増えてくる。小屋を作って凶作の為に貯蔵もできるようになる。
一方普通の家族は、ソコソコの広さの畠と、ソコソコの数の家畜を飼っている。
貯蔵小屋には、十分とは言えないが、貯えも少しはできた。
どちらかというと、働き者とは言えない家族もあって、毎年食うには困らないだけの収穫が有り、人様の世話にはなってはいない。
自分達だけで生きていかなくてはならないので、いざという時のために、貯えが必要なことは誰の目にもはっきりしている。
5年過ぎ6年過ぎてくると、貯えにも差がついてきて、村のリーダー達は、蓄えの少ない家族にもっと働いて、飢饉に備えろと注文つけるようになる。
働き者とは言えない家族は「自己責任だから」と言って相変わらずその日暮らしの生活を続けている。
10年目と11年目に2年連続の凶作になった。
最初の凶作の年は、助け合って生き延びたが、二年続けて凶作になると大抵の家では、人の面倒を見るほどの余裕は無く、働き者の家族にたべさせてもらうしかない。
働き者の家族で話し合いがされる。
なぜだ!他人の面倒をみなくてはならないものなのか!
同じ条件でスタートした。飢饉になることもあるからなんてことは、村中でしょっちゅう話し合いをして来た。
なのにも関わらず準備しなかった家族のために食べさせなければならぬものなのか?
怠け者が暑いと言っては、川で水遊びをしている時に、我々は暑いさなか、百姓をして来た。
その汗の結晶を、分け与えなければならないものなのか!
目の前で飢えて苦しんでいる人達を見捨てて、知らんふりをするわけにもいかんじゃろう。

翌年翌々年と豊作が続いた。怠けもんの家族も僅かながら備蓄をした。
働き者の家族は、そんな程度の備蓄ではまた困ることになる時がくるよと教えたが、「大丈夫今度は世話にはならないから」
そんなことを言って食えなくなってしまったらと言って、働き者が助けなかったら、あんた達は目の前で苦しんでいるのに助けようともしないのか!人非人!と罵倒されるのが落ち。
結局 働き者は生きてる間ずーと、弱いものの面倒を見続けることになる。
そんな不満を解消するために「キリスト」をはじめとする
「神の教え」は、施しているのではない。神は汝に施す機会を与えたもうたのだ。
施すことによる「喜びを」感じなさい。
無理があることは承知の上。
生まれながらに勤労意欲を持っている人たちが、ひねくれないように「神」は導いている。

現代に話を移してみると
テンポスでは、「自己責任」などと無粋な言葉は使わない。
「天は自ら助くるものを助く」とは言っても、意思の有るものを救っているだけだと、人材不足に陥ってしまう。
実際のところ、助かりたいという意思が無いじゃないかと思われるものも教育せざるを得ない。
休日研修を行う時に「研修唱和」を大声で読み上げる。
研修唱和!
私の未来は私の手の中にあります。
明日に向かって素晴らしい自分を作るために、
今日のトレーニング、ありがとうございます。
以上
こうでもしないと、「休日出勤手当は出るのですか」などと尋ねてくる不届きものがゴロゴロしている。
もともと休日に自費で、外部研修に参加している社員に、「そんな内容の研修を受けるのに2~3万も払っているのなら、俺が休みの日に講師をしてやるよ」って始まった自己啓発研修であっても、途中から加わって来たものは、「休日出勤手当」を請求してくるのがいる。
対策として「研修唱和」を作った訳である。
自主参加
桜ノ宮高校の暴力顧問、全柔連の園田監督の暴力指導、「金至上主義」だから暴力が生まれるのではない。
暴力をふるった指導者の立場に立ってみると、自分から、甲子園に出たい、金メダルを取りたいと、申し込んで来たのはお前達だ!
金メダルなんてものは、自分の努力で取れるものではない。良きコーチがいて、二人して限界を超える努力を続けなくて、トップアスリートになるわけない。
そんな事は承知の上「それなりの覚悟」があって選手に選ばれてきているはずだ。
死ぬ程大変だけどついて来るかい!厳しくご指導お願いします。ってスタートした。
腕立て伏せ50回をクリヤーしようとしたら、現在の記録の25回以下、仮に15回をトレーニングメニューにしていたら、50回は永遠に達成できない。
限界を超す目標を作り26回に挑戦して、何回も失敗した挙句やっとこ26回をものにする事ができる。次は27回その次は28回。
たかだか腕立て伏せでさえ限界に挑まなくてはものに出にないのに、金メダルを目標にしたら、
指導者だって選手にそれなりの期待をするのは当たり前。
金メダルを取りたいとトレーニングを申し込んで来ているのだから。
それなりの選手のはずなのに、簡単に「もう無理です」「辞めたい」という。
指導者はお前達「覚悟があってトレーニング」を受けてんだろ!って思う。
選手は様々、黙々とやり続けることのできるものと、何かといえばすぐ弱音を吐くやつ。
指導者と選手のトレーニングに対するスタンスが、日妙なズレを見せる。
熱心な指導者の中には つい 言葉を荒げる、つい手を出してしまう。
諦めがつかないからだ。
何とかしょうと思えば思う程「無理です」っていわれたってそうですかってわけにはいかない。
一度「奇跡の人」という映画をぜひ見てください。
生まれつきの「おし つんぼ 盲」のヘレンケラーは教育の方法も無く、ただ可哀想なこどもだから、せめてやりたいようにやらせてやろうと、親の教育方針により、殆ど獣状態であった。
サリバン先生は、教育の素人ではあったが、ヘレンケラーをみて、これは人ではなく獣である。
任せてくれるなら、親が教育の途中で可哀想だなどと口を出さないなら、「ケモノを人にしてみます」
一人の人を育てるとはそこ迄凄まじいものなんだ。
サリバン先生は暴力は振るわない。「暴力指導反対」と言っている人にぜひみて欲しい。
泣き言を言う善良な凡人を育てると言うのは「サリバン先生」と同じエネルギーがいる。
テンポスは、会社がサリバン先生。
柔道の強化選手のように選抜された人達ではない。通りがかりの人の集まりだ。
凡人中の凡人を集めて、次世代を目指す。
翌日から来なくなってしまうと、サリバン先生もやり方がわからなくなる。