昭和32年頃は山ん中の村の生活水準が低かった。
学校に、子供を背負ってくる生徒、昼飯はサツマイモ、脱脂粉乳が旨くて旨くて。
飯田線が開通したのが小学校4年。これで豊橋まで、2時間半。今までは浜松に4時間半。
おかげで、もっと山奥の高地民族も本校に通えるようになった。
分校の生徒は押しなべて、痩せて背が小さかった。彼らは、年1回の全校マラソン大会になると、
村中の、脚光を浴びた。せいぜい、村の中を10キロくらい走るだけであったが、
子供にとっては結構きついものではあった。
ゴール間近になると、本校の運動のできる体格の良い生徒が一団となり、
さすがに運動選手!というような、格好のよい走りを見せて、トップグループを形勢しているのだが、
其の遥か前方に、痩せて貧相な連中が手をぶらぶらさせて、しゃべりながら、ばらばらに走りぬけて、
其の後に、体格の良い運動選手が走ってくるのを見ると間抜けで、、、、、、。
そう感じるのも普段、我々ちびは、でかいのにいじめられていたから、
間抜けな運動選手の前を走っている痩せた高地民族を心情的に応援していた。
飯田線のおかげで、でかい奴らに一矢報いたような気がして、本校のちびは、分校のちびとすぐになじんだ。
我々より、さらに生活水準の低い分校の中でも、俺のとなりの席に座ることになった金田さわ子の家は
畳が無く、板の上に藁を撒き散らして、ござに薄っぺらな布団で、蚊帳は吊りっ放し、風呂は無く、
水はカメに貯めてあった。
私は幼少の頃から、落ち着きが無く、「今でも同じだ」という人もいくらかはいるが、
学校の屋根に上って、ひさしのすずめの子をとってたら、見つかって、校長にえらく怒られたり、
授業中指されて、「黒板に書け」と言われて、前に行く途中、三つ編みの女の子の髪をつい引っ張りすぎて、
その女の子が声を張り上げて泣く、女の先生が前からすっ飛んできて、俺を1発叩いて、
「何でそんなことをするの!」 理由が、ある訳無いので、金切り声で「訳を言いなさい」と言われても、
黙っているしかない。もう一発食らって、立たされるのだが、天に誓って、弱いものいじめはしたことは無い。
むしろ、お茶目ないたずら小僧で人気者であった。
さわ子は勉強はできたが、おとなしく、1日誰とも話さない日がほとんどであった。
髪の毛はよれて、白かったであろうブラウスも、うす汚いを通り越して、はっきりと汚いという方が
ぴったりしていた。風呂には入らず、石鹸もなかったろう。洗濯をしていなかったから、初めて会った日、
隣に座ったさわ子に向かって、大きな声で「さわ子、臭いよ、風呂ぉはいってこいよぅ!」
周りに聞こえるように、それが正義であるかのように叫んだ。挨拶代わりに、毎日「さわ子ぅ」とやっていた。
漢字のテストがあって、自分には分からん字がいっぱいあった。さわ子は、はっきりと俺に答えが
見えるようにしてくれた。自分には珍しく、87点とれた。
ある日、おれの消しゴムがなくなったと騒いでいると、さわ子が持っていた。
大声で、「さわ子が、盗った、盗った」と叫ぶと、消しゴムを握ったまま、悲しそうな目をして、固まっていた。
乱暴に取り返し、「どろぼぅ どろぼぅ」とはやし立てた。さわ子は、俺が消しゴムが、なくなったと、
騒ぐものだから、見つけて、渡そうとしていた。俺は、単純で、おっちょこちょいなので、考えもしないで、
「さわ子が盗った、さわ子が、盗った」と叫び続けると、周りの皆も、浮かれたように、
「さわ子が盗った。泥棒さわ子」とはやしたてた。小さな声で、「私は盗っていない」と言ったが、
騒がしくて、誰にも聞こえてない。しかし、俺の耳には、今でも、はっきりと「私は、盗ってない」と聞こえている。
大学を卒業して何年もたってから、たまたま、実家に兄弟が集まって、古いアルバムを広げていた。
6年の卒業文集に学校は楽しかった。でも、きれいな服と本当の友達が欲しかった。と さわ子がまるで
俺に宛てた手紙のような文章をみつけると、さわ子、お前、そんなことを、思っていたのか、さわ子ぉ、ごめんよ
さわ子ぉ、一年間、隣にいて、ただの1回も友達らしい声をかけたことも無い、
さわ子の胸の内を今頃知って、今頃謝って、今頃泣いて、このオオバカ篤史は、どうすりゃいいんだ!
閉じた口の筋肉が震え、涙がぼたぼた出て、60歳を過ぎた今でも、涙を流しながら、ブログを書いている。