この「十八史略」は、春秋戦国時代から中国統一へと向かう時代の話が中心で、その時代に活躍したリーダーの行いや考えを紹介している。そんな「十八史略」に、中国の故事「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」の話が出てくる。これは春秋戦国時代に斉の国の孟嘗君(もうしょうくん)という優れた人物が、敵国に捕らわれた時に、犬の鳴き声と鶏の鳴き声がうまい家来に助けられ、自国に逃れることができたという話だ。この「鶏鳴狗盗」は、一見何の取り柄のない人でも、何か1つくらいは秀でた能力を持っていること、役に立つという意味を指している。これに対して、テンポスの次世代幹部研修ではこんな意見が出た。「誰にでも何かしらの才能があるということは、その才能を発見して育てること、そして才能が発揮できる仕事を与えることがリーダーの仕事である。才能を発見できないのはリーダーとして未熟だ。」という意見だ。しかし、これは半分合っているが、半分間違っている。才能を発見して育てるという点は良い。だが、誰にでも何かしらの才能があると思い、その人に合った才能に合わせて仕事のチャンスを与えようと考えるのは間違いである。
仮に、あなたの部下の中に、平々凡々としていて、やる気はないけど、鶏の鳴き真似が得意な人がいたとする。しかし、鶏の真似ができる才能を持つ部下がいたとしても、その人に一体何の仕事をさせるのか。お客が来た時は『コケコッコー!と言うんだよ』なんて指示は出さないよな。鶏の鳴き声ができるからって、ビジネスでは使いようがないんだよ。つまり、人間誰しも持っている才能と、ビジネスで活かせる才能を分けて考えないといけないということだ。ただし、最初から「あいつはダメだ」と否定して、人の才能の発掘をせずに、人を選んでばかりでもだめなんだ。リーダーは、部下の才能を見つけ、その才能を伸ばす努力は続けないといけない。
「十八史略」の時代は、食料は牛に乗せて運ぶような時代で、物流機能が発達していないから、食料も豊富だったわけではない。だから、物を作れば売れるから市場競争は無いし、他社と比べて勝ち抜くという考えは必要なかった。だから、「十八史略」は基本的にビジネス社会の話ではないな。市場競争の無い、夫婦とか家族とか、そういう組織の中なら「鶏鳴狗盗」の故事を使い、「どんな才能でも使いようがある」と言ってもいい。旦那がブスで屁をこく男だろうが、それを切って捨てるほどの才能のある嫁でもないと自覚がある女なら、旦那の悪い所ばかりを見るのではなく、良いところや才能を見つけて生活をするという意味で、「どんな才能でも使いようがある」が使える。
しかし、市場競争で生きる我々の場合は、相手の良いところを見つけることよりも、その人の仕事は生産性が高いか、効率的に仕事ができているかを見る方が何倍も大事なことである。だから、向上心があって、誠実で気配りができる素晴らしい人間でも、生産性が低ければ、ビジネス社会での評価は低い。だから指導を続けた上で、生産性が上がらなければ本人の為にも配置転換する。良いところがあっても、使えない場合がたくさんある。これは、市場競争の中で生きていく会社の辛いところだよな。
一方で、テンポスは定年制を廃止していて、70歳、80歳の人も働いている。テンポスには、飲食店から引き上げてきた食器を洗ったり、事務仕事をしたり、その年齢の人でも働ける仕事があるから、働く場所を提供しているだけだ。だけど、定年制がない分、査定ははっきりしているよ。でも、高齢者の中には、手が震えたり、すぐに忘れたり、しょうがないレベルの人だっているよな。最低賃金を上回る生産性が出せない人たちだ。でも国には最低賃金以下では雇ってはいけないという法律があるから、テンポスも高齢者なら誰でも入社できるという訳ではない。そんな時は業務委託契約とかで、高齢者が自分ができる範囲とスピードで出来高で仕事をしてもらう。実際、テンポスでも飲食店から引き上げてきた家具の修理を出来高の仕事をしてもらっている。家でじっとしているよりも、週2日でも週4日でも外で働きたいという人には、働ける場を提供したいと考えているからだ。
管理職をしていれば、この人は生産性が高い、この人は、良い人だけど生産性が低い、いろいろと悩みは尽きないだろう。だけど、いろいろやらせてみて、それでもダメなら選手交代して、成果を出していくのがリーダーの仕事である。みんな一緒、誰にでも才能はある、そういう世界では市場競争には勝ち残れないよ。
記者:スマイラー特派員
乙丸千夏(テンポス広報部)
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