人間としてのあなたの役目

死を望む弟に死の手助けをすることは悪なのか

森鴎外の名作「高瀬舟」をご存知でしょうか。

「子供の頃に両親を亡くした喜助は弟と2人で暮らしていました。弟が病気で働けなくなってからも貧しいながら一生懸命働き、弟の面倒を見ています。ところが、ある日家に帰ると弟が刃物で喉を切り付け血を流しています。聞けばこれ以上迷惑をかけたくないと思い自殺を図ったのです。しかし、弟は最後まで喉を切ることができません。血を流しながら刃を抜いてくれと喜助に必死に頼みます。刃を抜けば血があふれ出し弟は死にます。迷う喜助はとうとう刃を抜いてしまうのでした。そこをちょうど近所の人に見られ、喜助は弟殺しの罪として島流しにあうのです。」

現代でも、人が死のうとしているのを援助すれば罰せられます。自殺幇助(ほうじょ)罪に問われるのです。死にかかっている人を楽にさせてあげたほうがよっぽど本人の為だと思っていても、人の死に手を差し伸べてはいけないのです。なぜか?

江戸時代初期の人口は3000万人でした。人口は増え明治時代初期は3400万人まで増えました。およそ270年間で400万人の人口増です。しかし、その100年後の2000年には、人口は一気に1.3億人まで増えるのです。それは、医療の進歩や保険などの福利厚生が格段に進化しているからというのは明白な事実ですが、反対に、医療技術のない江戸時代を現代に重ねてみるとどうでしょう。江戸時代から明治時代まで400万人しか人口は増えていないのですから、1.3億人のうち1千7百万人しか生き残れない時代だったということになります。

つまり、現在生きている1億1千万人の人は、医療技術や介護制度がないと生きていけない生命力の弱い人たちなのです。

生き物は生まれた時から、生命力のあるものだけが生き残ってきました。死んでゆく人たちは、元気な人たちに「次の世代を頼むよ」と思いながら死んでいくのです。私達が人間として求められているものは、頭の健康、体の健康、そして子孫を残すことです。生命体としての人間は、子孫を残すために生まれてきている、重い責任があるのです。しかし、そうは言いながらも全ての人が子孫を残せるわけではないので、あくまで生命体としての概念の話しです。

森鴎外の高瀬舟の喜助が島流しにされたのも、自殺幇助(ほうじょ)罪があるのも、この人間の役割を果たすために、生き永らえなければいけないからです。人は死にます。生命力の弱い人が死んでしまうのも、昔からある当たり前の摂理です。それを妨げる事は誰にでもできません。

だから、障害者だろうが普通の人だろうが、生を受けた人は一生懸命に生きなければなりません。障害者だから生きる価値が無い等とは、誰かが決めることはできないのです。反対に、自分が障害者だからと愚痴を言ってもいけないのです。

個人の自由は何百万人の死の功績から存在する

人間と動物の違いは未来を創造できるか、できないかです。創造とは未来のための計画をたてられることです。「創造」には芸術も含まれます。1枚の絵がある場合、その絵の良し悪しを決める判断は、個人の好みなのか、それとも、良い絵を見極め判断する確かな力なのか?と質問すると7割が個人の好みと答え、3割が後者と答えます。

しかし、芸術とは創造です。人間しかできないことなのです。個人の好みで良いというのであれば動物でもできます。個人の好みで芸術を判断するとは人間を辞めることと同じことだと私は考えています。

絵の好みがあるように、その絵が好きだと主張することは個人の自由です。しかし、自由とは何百万人の人が命を落として獲得してきたことを忘れてはいけません。簡単に個人の自由を振りかざしてはいけないのです。健康に生きる、子孫を残す、創造するという人間の役割を果たすことが大前提に、個人の自由は成り立つのです。

毎日、真面目に一生懸命生きる中で、嫌な事もたくさんあります。しかし、生きている誰もが宇宙の流れの中で生きているという事を、この機会に一瞬でも感じてもらえれば幸いです。

Smiler33号より