うかつにも、女房の苦しみを知らなんだ

年の暮れだってんで、女房と昔話がはずんだ。。
親父やお袋が歳とっても寝込まなかったおかげで、東京で自由にやれたんだよな。
話に花が咲き、子供の時の勉強の話、それぞれの親の話、
「俺は浮き沈み人生だったが、この10年借金の返済ができずに、銀行に責められて、借りる人には全て借りまくって、高利の金融に1年期限で借り入れをした頃、一番辛かったなぁ」
ところでお前は?と女房に振った。
「私は3回ある」ときた。
親がお茶の問屋で、博打商売。儲かりゃお大尽。損して家を売っぱらって、中学時代学費が払えなくて、学校へ行けない時があった。
結婚するなら、安定したサラリーマンと決めていて、上場会社のサラリーマンと結婚したつもりだっのが、
会社を解雇されて、独立しなければいけなくなった時、選択を失敗した、困ったなぁと思った。
二度目は
テンポス1年目でヨチヨチ歩きなのに、二人で作った親会社のKyoDoが立ち行かなくなって、
12月25日子供3人は大学生で、それぞれのクリスマス、夫婦二人だけで、KyoDoの清算を話し合った時。
子供の教育よりも、二人でなんとか会社を立ち上げようとやってきたKyoDo。それが潰れる。
三度目は
テンポスが軌道に乗ってきたとは言うものの、食器が分かるのは女房だけ。
一人で瀬戸多治見に行き仕入れたものが、東大阪店に入荷すると、ホテルで商品の値付けをマジックで書いて、2時頃になってウトウトしても、やり終えないと、翌日陳列しても値段をつけてない商品を並べる事になる。
翌日値付け陳列して、入り口に積んである食器を持って、50メートルもある商品棚まで何回往復したことか、
夜駅の階段を上がれなくて、浅野内匠頭の様に太ももを持ち上げて、ホテルに行った。
地方の出店はホテルが近くて2~3駅だからいいが、関東の出店は家から2時間。何日も通うわけだから、あの時は大変だった。

女房は大変などと一言も口にする様な女じゃなかった。迂闊だった。
俺は俺で頑張ってきたと思っていたが、間も無く69才。
今の今まで知らなんだ。
生きててくれて良かった。
55才の友達が他界して60日
このところ、来し方を振り返ることをしてみていると、如何に人の支えがあって今があるということを思い知らされる。
それにしても、こうやって実家に帰って年の暮れを迎える、
既に両親はない。
恩返しのしようもない。
女房が生きてて良かった。
孝行するよ。